ピークが100年持続した。全音楽史のなかでももっとも高い山脈 ― オペレッタのブームも含めて、19世紀を席巻したのはなにを措いてもワルツ。時はまさにビーダーマイヤーの時代で、大きな向上を望めないなかで日常の悦楽を求めるようになっていた。快感原則が謹厳な道徳的価値観を打ち破り、ウィーン特有の「ゲミュートリヒカイト(心地よさ)」文化を築く元となった。本盤は、ウィンナ・ワルツが骨の髄まで染みこむなど職人気質を持つヴィリー・ボスコフスキーによる定番のシュトラウス・ファミリーやレハールではないワルツ集。ウィンナ・ワルツは、19世紀のウィーンで流行し〝ウィーン会議〟を通してヨーロッパ中に広まっていった3拍子のワルツ。ワルツ以前、貴族の世界ではメヌエットが優雅に踊られていた。手を取り合って身体の距離を保ったまま踊るメヌエットから、身体を寄せあって相手の腰に手を廻らしてくるくる回り踊るワルツの魅力はあきらかにセクシュアルなもので、一世を風靡するようになる。その時代から庶民的な踊りとしてドイツ舞曲やレントラーと呼ばれるものが踊られていたが、公の場で顰蹙を買いながらも次第に官能的な踊りが認められるようになった、「ワルツの世紀」とも呼ばれる19世紀初頭、ウィーンにミヒャエル・パーマー率いる楽団があった。ウィンナ・ワルツを創始するヨーゼフ・ランナーとヨハン・シュトラウス1世は共にパーマー楽団の団員であった。彼らの時代になってホイリゲの片隅でバンド活動していた身分から、大きなダンスホールで大衆を相手に演奏するとようになったのがワルツ発展の大きなエポックになった。ふたりは「ワルツ合戦」と呼ばれる熾烈な競争の中で、ウィンナ・ワルツを発展させていった。当時のウィーンで圧倒的な人気を誇り、ショパンにウィーンで『華麗なる大円舞曲』を出版することを断念させたほど。ランナーのファンにはシューベルトがおり、それぞれのご贔屓筋が競争して応援を繰り広げるような状態だった。彼らのほかにもファールバッハの楽団など、2番手、3番手のワルツ作曲家が目白押しでブームの層の厚さがピークの高さを作り出していた。シュトラウス1世の息子ヨハン・シュトラウス2世はウィンナ・ワルツの黄金時代を築くランナーはその最初のピークを築いた人で、後続がたくさん出てきたにもかかわらず、ピークの高さが見劣りしないすばらしい魅力に溢れている。1曲ごとに気の利いたネーミングがされるようになったのも、ランナーの工夫の一つ。いっぺんに親しみやすくなったのと同時に、1曲ごとの個性化になくてはならない発想の元ともなった。天才が早死にしたのは残念ながら、シュトラウス1世に比べても音楽の工夫やエレガンスにおいて遥かに優れた天性の音楽家のように感じられる。ポルカ、ギャロップ、レントラーなどもあり、アルバムを通して飽きずに楽しめるだろう。ときおり現れるメランコリックな表情が他にない魅力だろう。
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